逃げるは恥じゃないし役に立つ。
まだ22歳の女の子が、ネットの誹謗中傷により自ら命を絶ったというニュース。
優しい人が人の悪意によって潰されてしまうことって本当に悲しすぎて、どうしたらこういうことがなくなるんだろうって昨日一晩中考えてました。
誹謗中傷とかいじめがなくなればそれが1番ですが、現実問題それはほぼ無理な話だと思う。
(人間の本能レベルの話なのではないだろうか…)
ただ、制度として抑止力となり得る策はとれるはずだからこれは一つ今後やるべきこと。
でも死刑制度があっても犯罪がなくならないように、制度だけでは絶対足りなくて、結局ひとりひとりの心次第とならざるを得ない部分が残ってしまうと思う。
そこで自分が「強くなる(=悪意と闘う、もしくは気にしない)」しかないって解決策だと、心優しい人には特にしんどすぎる。
強くなれるもんならなってるんだよなあ。
なりたいと思っててもなかなかなれない、だから苦しい、そういうものなんじゃないかな。。
特段優しいってタイプでもなければ、選挙に出ようとするくらいなので繊細でもないタイプの人間である私がなんでそんな風に思うかというと、政治活動きっかけだったりします。
私は政治活動を通じて、人生で初めて不特定多数の人に自分を晒すという経験をしました。
自分を晒すことは叩かれることを受け入れること、という有名税的な考え方は、腹立たしい一方でやむを得ない部分もあると思っていたので、人前に出る以上、ある程度嫌な目に合うことは覚悟していたつもりでした。
しかし、実際は応援してくれる方々の善意のパワーでは補えないほど、悪意を向けてくる人々に心を蝕まれました。
考えの違いからくる批判なら、受け止められる。
でも、理不尽極まりない理由で私の存在自体を否定してくる人や、歪んだ感情で粘着してくる人は恐怖でしかありませんでした。
周りの人たちには、自分のキャラクター的にも冗談まじりに「もう疲れたよ〜笑」「ストレスでハゲたよ〜笑」などと軽く言ってましたが、本当は笑えないレベルできつくて。
覚悟が甘かった、心が弱かったと言われればその通りです。
客観的に見れば私が受けた悪意程度でしんどいなどと言っていたら政治家なんて務まらない。もっとひどい目に合ってる人だっていて、自分だけがきついわけじゃない。
そんなことは、自分が1番よくわかっていました。
だから、あまちゃんの私が悪いんだ。スルースキルの低い私が悪いんだ。って自分が嫌になりました。
そんな時、1人の友達が言ってくれたこと。
「悪意に向き合って大沢の良さ消えるのもったいなすぎるよ。自分を嫌になるくらいなら、逃げたほうがいい。無理に頑張ろうとして潰れるより、自然と頑張ろうって思えるようになるまでは頑張らないほうがいい」
その言葉で、すごく心が楽になりました。
あぁ、私はある種客観的な正論に基づく自己嫌悪によって、人から受ける悪意をよりしんどいものにしてたのかな、と気づきました。
悪意に対して
「闘うべき、強くなるべき」は間違いじゃないし、できるに越したことはない。心の余裕が少しでもあるなら、少しずつ目指したほうがいい。
だけど、悪意こそが悪なのであり、闘えないこと、強くなれないことは悪いことじゃない。
だから自分を責めなくていい。どうしようもなく余裕がないときには無理しなくていい。
「逃げていい、というか逃げろ」っていう考え、選択肢が広まれば、みんなもう少し楽に生きられるんじゃないかな。
長々とまとまりなく書き綴ってしまいましたが、私は優しい人が幸せに生きられる社会をつくれるような人間になりたい、そう思います。
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